みなさん、NHK大河ドラマ『西郷どん』見てますか?
実は、歴史地理学から『西郷どん』を見ると
ドラマと史実ではこんなにも違う!?
西郷さんの家って、今のどこにあったの?!
などなど、ドラマを見てなくても楽しめる豆知識がたくさんあるんです!
今回は、「人文ガチ考察シリーズ」ということで(勝手に命名)
法文学部で歴史地理学を専門とする小林善仁先生にご協力いただきました!
この記事を読んで、全国的に盛り上がりを見せる『西郷どん』の鼻タカ知識を、ドヤ顔で披露しましょう!
今回は、主に『薩藩沿革地図』(1935)所収の『鹿児島城下絵図屏風』(天保13・1842年頃))を使用します!
1.大久保家の引っ越し先と時期
(1)家の位置が違う
ドラマでは西郷家と大久保家は隣同士ですが、史実では150mほど離れていました。
ちなみに、このあたりが西郷さんの家です。
加治屋町の高麗橋近く、甲突川沿いでした。
▼西郷家
現代だと大体この辺。「維新ふるさと館」の近くです。
▼現在の西郷家あたり
▼西郷家近くにある高麗橋
この絵図で、西郷さんの家の位置は分かります。
しかし、大久保さんは絵図が残っていないので、厳密には分かりません。
(2)引っ越した時期が違う!?
大久保さんは高麗町うまれで、加治屋町に引っ越しました。
▼大久保利通生誕地(高麗町)
ドラマの設定では、大久保さんは8歳よりも前に引っ越しています。(※1下部)
しかし史実によると、10歳以降だったと考えられます。
なぜなら、1842年ごろの史料をみると、大久保さんが10歳ごろの加治屋町に西郷家はありましたが、大久保家は見当たりませんでした。(※2下部)
つまり、大久保さんは10歳ごろ、まだ加治屋町にはいないのです。
気になる具体的な時期ですが…
上記のこと以外は、史料が残っていないため厳密には言えません。
そもそも、今よりも簡単ではないとはいえ、昔の人も引っ越しをしていました。そのため、わからないことが多いのです。
※1
1話の『西郷どん』はケガのエピソードから考えて、西郷さんは11歳ごろ、大久保さんは8歳ごろ。 ドラマの大久保さんは物語開始時点で引っ越していたため、引っ越しは少なくとも8歳より前ということです。
※2
「鹿児島絵図」、天保13・1842年頃 西郷さんが13歳ごろ、大久保さんが10歳ごろの絵図。家の1つに西郷竜右衛門の文字。
2.3人の交流はフィクション?
ドラマでは、西郷さん・大久保さん・糸さん(のちの西郷の妻)の3人は、幼少から仲睦まじい描写がありました。
この交流がフィクションなのは有名ですが、なぜそう言えるのでしょうか。
ポイントは「川」です。
ここにいまの甲突川がありますよね。
▼甲突川の絵図
当時、川の向こう側(甲突川右岸)が川外、こちら(同左岸)が川内、その隣(稲荷川下流部)が上方と呼ばれていました。
▼川外、上方、川内の図
3人が住んでいたのは、川外に大久保さん(幼少期)、川内に西郷さん、上方に糸さんです。
▼3人の地方
これが、交流がないと考えられる理由です。
糸さんはその他2人とかなりの距離があるため納得ですが
大久保さんと西郷さんは「川1本で?」と思いますよね。
そこが、現代の感覚とは違うんです。
昔の人は、川1本隔てると、全然違う世界の人って感覚なんです。
現代で例えると、たとえ同い年でも学区が違うと「同級生」って感じがしない…みたいな。
このころも、郷中は対立するライバル関係でした。
確かに、『西郷どん』1話にも郷中のこども同士で対立する描写がありましたね。
このことから、大久保さんと西郷さんの交流は、おそらく大久保さんが加治屋町に来てからでしょう。
史実は同時に、大久保さんと西郷さんの仲が良かったことも明らかにしています。
位置は違っても、2人の碑がまったく同じなのです。
西郷隆盛誕生地の碑▼
大久保利通誕生地の碑▼
死後もなお続く2人の友情を感じます。
また、「川」は身分差も表しました。
上の身分から上方、川内、川外。
大久保さんのような、川外の人々は見下されていました。
ここで、西郷さんの家は川のギリギリだと気づきませんか?
▼西郷家位置(赤印)
そう、そのギリギリってのも重要なんです。
すぐに氾濫するような危ない土地なので、相当身分が低かったんじゃないでしょうか。
川内は歴史があるので、川外よりは身分が高かったはずですが…
西郷さんの家は端っこなので、やっぱり見下されていたと考えられます。
なら、川外の大久保さんはもっと下?と思いますよね。
そう考えるのが自然ですが、史料がないので何とも言えません。
ただ、大久保家は150坪ほど、西郷家は250坪ほどなので、家の面積だけで考えるとそう言えるのかもしれません。
3.糸さんはフィクションだらけ!
ドラマでは幼少期から西郷さんと糸さんの交流が描かれていました。
それもフィクションです。
史料によると、糸さんの実家はここです。南洲神社の門の前だったと言われています。
▼糸さんの実家(岩山家)
前節で言った通り、糸さんは上方の人なので、西郷さんや大久保さんとはかなりの距離や身分差があります。
▼西郷家と糸さんの実家
今でいうと、高麗橋から南洲神社までの距離。
交流はなかったとみる方が自然ですね。
さらに、それ以前の問題も。
糸さんは西郷さんより16歳年下なので、幼いころから仲睦まじくしているのはファンタジーですね。
ちなみに現代、糸さんの実家は南洲神社のファミマあたりです。
▼現在の岩山家
そう、そんなところに。驚きです。
絵図にあった、南洲神社に続く階段も見つけました。
この上にある南洲神社は、西郷さんをまつる神社です。
開けていて、きれいな景色が広がっていました。
神社の横は南洲墓地で、西郷さんのお墓があります。
ここが糸さんの実家近くなのも、何か意味があるのでしょうか…。
4.城山から桜島を見る場面はファンタジー!
1話の最後に、幼い西郷さんたちが城山に登って桜島や鶴丸城を眺める、印象的な場面があります。
あれは本当に現代的な発想です。
史料から考えて、フィクションというより、むしろファンタジーだと考えられます。
なぜなら、城山は今のように気軽に登れませんでした。
何も手を加えていない「山」だったためです。
▼絵図の城山
今のように開けておらず、史料には「うっそうとしていた」とあります。
あと、ここ。山道を見ると、柵がありますよね。
この道には門番がいたはずです。
とても子供が遊びで登れるものではありません。
「じゃあ、野生動物みたいに、横のこの辺から登ったんじゃないか?」
絶壁です。ムリでしょう。
とても登れる代物ではないです。
あと、もう1つ大変なことをしちゃってるんです。
あのとき、城を見下ろしてましたよね。
そう、「お殿様を見下ろす」。つまり不敬に当たります。
というか、見下ろせる場所があったら攻められてやばいし、そこにこどもが登れちゃうのはやばいです。色々やばいですね。(語彙力の消失)
5.高麗橋は石橋化してた!?
ドラマでは、西郷さんが青年になってからも、家の近くの橋は木造のままでした。
撮影セットの都合かと考えられますが、あれが高麗橋だとすればとっくに石橋になっているはずです。
高麗橋はもともと木の橋でしたが、西郷さんが子どものころに氾濫し、治水工事がありました。
史料によれば、高麗橋の石橋化工事は弘化4(1847)年、西郷が郷中の二才頭になった年です。
「西郷が青年のころ、川の橋がたいそう立派になった」と言われています。
こんなにも史実と違うところが!?と皆さん驚いたことでしょう。
みなさんは、ドラマと史実が違うことについて、どう思いますか?
わたしは「史実と違うところこそ面白い!」と思います。
なぜなら、変えるのにはきっと何らかの意味があって、そのドラマの大事なところが隠れているからです。
小林先生は「僕の話を聞いて、ドラマが10倍おもしろくなるどころか、つまらなくならないといいんだけど笑」と仰っていましたが…笑
1つの絵図からここまで分かるなんて、歴史地理学って面白いですよね。
普段何気なく目にしていた街並みさえ、とっても深みを増していきます。
鹿児島は、歴史的事情により全国に比べ史料がとても少ないので、県民も知らないことがたくさんあるんです。
もっと地元について知りたいと思いませんか?
『薩藩沿革地図』は鹿児島大学の図書館にも所蔵しています。
ただ、とってもデリケートな史料なので、取り扱いは注意してくださいね!
参照
『薩藩沿革地図』鹿児島市、1935年
監修
小林善仁(鹿児島大学 法文教育学域法文学系 法文学部 人文学科,准教授)