今回は映画「のさりの島」がガーデンズシネマで7月17日から上映されることを記念して、山本起也監督に映画の撮影秘話や映画に込めた思いをインタビューしてきました!

まずは、「のさりの島」の予告編をご覧ください👀

スト―リー
 オレオレ詐欺の旅を続ける若い男が、熊本・天草の寂れた商店街に流れ着いた。老女の艶子は、若い男を孫の“将太”として招きいれる。若い男はいつの間にか、“将太”として艶子と奇妙な共同生活を送るようになり、やさしい“嘘”の時間に居場所を見つけていく。
地元FM局のパーソナリティを務める清ら(きよら)は、昔の天草の8ミリ映像や写真を集め、商店街の映画館で上映会を企画する。ひょんなことから“将太”も、上映会の企画チームに連れ込まれてしまう。賑わいのあった頃の天草・銀天街の記憶を取り戻そうと夢中になる清ら。かつての銀天街の痕跡を探す中で、艶子の持っていた古い家族アルバムに、“将太”は一枚の写真を見つける—
本渡の大火、焼け跡を片付ける町の人々、復興後の祭りの様子…。街に流れるブルースハープの音色と共に、スクリーンに映し出された天草のかつての記憶。
「将太さん、本当はどこのひとなの…」
目次

プロフィール

 1966年生まれ、静岡県出身。無名の4回戦ボクサーたちの姿を6年にわたり追った長編ドキュメンタリー映画『ジム』(03)、90歳になる実の祖母の「住み慣れた家の取り壊し」をモチーフにした第2作『ツヒノスミカ』(06)などのドキュメンタリーを発表。『ツヒノスミカ』で、スペインの国際ドキュメンタリー映画祭 PUNTO DE VISTA ジャン・ヴィゴ賞(最優秀監督賞)を受賞する。2012年、初の劇映画『カミハテ商店』(出演・高橋惠子 寺島進ほか)を監督。同作は島根県隠岐郡海士町の全面支援のもと撮影され、第47回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でメインコンぺ部門12作品の1本に選ばれた。京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)映画学科で、プロのスタッフと学生による映画製作プロジェクト「北白川派」を推進。『のさりの島』はその第7弾にあたる。

北白川派とは?

 京都芸術大学の映画学科の学生たちとプロの人たちが一緒になって映画を作るプロジェクトです。もともと僕は映画の作り手をしていて、10年ちょっと前に大学で映画を教えないかと声をかけられて大学の先生になったんです。ただ、僕たちが学生の頃は映画を教えてくれる学校なんてほとんどなかったので、僕たちは映画を学校じゃなくて現場で先輩に叱られながら自分なりに学んできました。だから、教室で授業をするだけじゃなくて、実際に映画の現場を僕たちの手で作ってそこに学生たちを放り込まないとちゃんと学生たちに映画を伝えられないんじゃないかということで大学で映画を作ろうという話になりました。しかも作る映画は練習や経験のために作るのではなく、本当に映画館で上映するような、皆がお金を払って見るような映画を作ろうと。その中で学生は映画とはなにかということを本当にそこで感じ、そこからどのように生きていくか考えさせるのが僕たちの責任だろうということで始めました。大学が京都の北白川というところにあるので文学の世界に白樺派というのがあるように映画の世界でも北白川派があってもいいじゃないかということでこのような名前になりました。「のさりの島」はこの北白川派の映画の7作目です。

 

映画製作の裏側

どのくらいの期間で作ったんですか?
 一番最初にこの映画の最初のストーリーを思いついたのは2014年で撮影したのが2019年の2月です。映画って思いついてやりたいと思っていても、お金もいるし、一緒に作る仲間も撮影場所も上映してもらう映画館も必要ですよね?そういうのを全部準備していかないといけないので時間がかかるんです。さらに、映画というのは撮影する地元の人たちに迷惑をかけてしまうので、そこに通って地元の人たちとの関係作りから始めないといけません。2014年に着想して、いよいよ天草で撮るぞってなってから1年かけて時々そこに通って地元の人と仲良くなりました。そして映画を撮ろうとなっても天草のお話なので俳優さんに天草弁でしゃべってもらわなきゃいけない。そうすると台本を天草弁で書いたり、実際に天草の人にセリフをしゃべってもらってDVDにして俳優さんに練習用として渡す。また、撮影する環境を作るためにいろいろなところに企画書を出してお願いをする。こういうことを11個全部やっていかなきゃいけない。そうしてなんとか映画を撮り終わっても、映画を撮り終わったからといってさようならというわけにはいかなくて、お世話になった地元の人たちに見てもらわなきゃいけないので地元の人たちに映画を見せるにはどうしたらいいかとか、今度はそれをいろんな映画館で上映して1人でも多くの人に見てもらうにはどうしたらいいかとかそういうところまでするんです。
お金はどうやって集めるんですか?
 お金は大学や天草市に申請して助成金をいただきました。でも集まったお金は他の普通の映画の製作費と比べると断然少なくて、その中でチームのスタッフの飛行機代、宿代、食事代もやりくりしないといけないんです。少ないお金で映画を完成させるために天草市にお願いして農業研修の施設を貸していただき、そこに学生も僕もみんなで雑魚寝して泊まり込み、食事も地元の人たちが持ってきてくれたお野菜を使って炊き出しをしていました。そうしていくうちに地元の人たちが炊き出しのお手伝いをしてくれたり、大学生と話したりして現場がにぎやかになり、そこがサロンみたいになっていきました。お金がないっていうのは全然不幸なことではなくて、天草の人たちが手伝ってくれるすきまがいっぱいあったからこの映画ができたと思います。野菜1つ持ってきてくれた人も全員名前をいれたので、エンドロールにはものすごいたくさん天草の人たちの名前がありました。「のさりの島」はそうやって作った映画です。

天草が舞台になった理由

「のさりの島」はオレオレ詐欺の話なんですけど、オレオレ詐欺の映画を撮らせてほしいと言ったらだいたいのところはやめてくれって言われるので映画が実現しないまま宙ぶらりんになっていました。そこでうちの大学の副学長の小山薫堂さん(くまモンの生みの親)の出身が天草だから熊本だったら少しは話を聞いてくれるかなと思って熊本県庁に行きました。そして天草の人にこの話をしたら、「そういう話天草だったらあるかもしれんねえ。オレオレ詐欺の男が来ても、上がってお茶飲んでいきなさいっていうおばあちゃんいっぱいいるよ。」と言ってこの話を面白がってくれました。オレオレ詐欺をしている男なんて普通は捕まったらやばいから逃げるじゃないですか。でも、男はおばあちゃんに言われるがまま、上がり込んで暮らすようになっていった。僕はなんでこうなったか作りながらわからなかったんですけど、天草に行って僕がこういう映画を撮りたいと言って行ったら見ず知らずの僕を「ここならその話あるかもしれんばい、とりあえず焼酎飲むかい?」と受け入れてくれた、そういう天草の人のおおらかな雰囲気にこの男はだんだん絡め取られて、ここに居ついちゃうのかなあって思いました。その時、「この映画はやっぱりここでとらないといけない」と思いました。この天草の雰囲気が僕が天草で映画を撮らざるを得ないように持っていったんだと思います。

映画『のさりの島』公式Twitterより

「のさり」について

「のさり」にはどういう意味があるのですか?

「のさり」はいいこともそうでないことも、自分の今ある全ての境遇は、天からの授かりものとして否定せずに受け入れるという、天草の優しさの原点ともいえる言葉です。熊本の人は競馬やパチンコで勝った時などに「おお、のさっとるね」という風に使います。また、一方で水俣病について話されるときにも「のさり」という言葉が出てきます。患者さんたちは水銀を出した会社と闘争していましたが、時が経つにつれて憎み続けるのはつらいと言い始め、最後には「水俣病になったおかげで人のつながりや人の温かさを知ることができた、わたしは水俣病にのさった。」と言うようになっていきました。誰が見ても不運なこともそれはもしかしたら自分の人生に必要なことだったのかもしれない。むしろ一見不運なことは私の人生を豊かにしてくれたかもしれない。物事を全部、誰がどう見ても自分にとって不運なことも受け止めなおしていく。そういう感覚がこの「のさり」という言葉の根底にはあるような気がします。

映画の中では「のさり」という言葉は使われていないそうですが、その理由は?

 実は、この映画のタイトルは僕が考えたのは違うタイトルでした。僕が考えたのは「ばあちゃんオレオレ」で、ちょっとくすっとできるようないいタイトルだと思ったんですが、小山薫堂さんがこのタイトルじゃだめって言って、タイトルが決まっていませんでした。いよいよ台本を印刷しなきゃいけない間際になって小山薫堂さんが「のさりの島」というタイトルを提案してくれました。だから、「のさりの島」というタイトルは一番最後に決まったのでこの映画に「のさり」という言葉は出てこないんです。でも今思うと最初に「のさりの島」というタイトルが決まらなくてよかったなあって思っています。「のさりの島」というタイトルを最初に決めていたら映画の中で「のさり」とはなにかということを理屈で説明していたかもしれません。「のさり」というのは理屈ではなくて、この映画全体が持っているこの世界こそが「のさり」だと後から気が付いたんです。いいタイトルだなと思いながらそんなこと考えてる余裕もなく撮ってしまった。撮った後で自分が撮った映画のこの世界こそ「のさり」だとあとからわかってきて、不思議な体験でした。

映画『のさりの島』公式Twitterより

この物語が生まれたきっかけ

この物語が生まれたのは、もともとは佐村河内事件がきっかけです。当時、耳が聞こえない作曲家として佐村河内さんは人気者になりましたが、耳が聞こえないというのは嘘だったということが明らかになり、最後はゴーストライターの新垣さんという人が出てきました。あの時に、みんな情報として耳の聞こえない作曲家を素晴らしいと賞賛しましたが、また次の瞬間これも情報としてそれが嘘だったとわかり、みんな批判しました。それを見て、僕たちはどうして情報というもので世界にまるとかばつとか本当とか嘘とか決めつけて、ほめたたえたり怒ったりしているんだ、僕たちは何をしているんだと思いました。なんか恐ろしいなあって。だから、嘘かもしれないけれど自分がその嘘を信じて悪い気がしなかったらそれはそれでいいみたいな、そういう映画を作ってみたかったんです。嘘のおばあちゃんと嘘の孫が嘘の世界に自分たちから片足ツッコんでいったらほんとのおばあちゃんと孫みたいな気分になっちゃう。でも、しょせん嘘だから残念ながらそれは長くは続かない。そういう話があっても、むしろそういう方が僕たちの生きてる世界は豊かだと思います。そんなことは映画の中では言っていないけれど、嘘に「のさって」いく、自分で世界を感じ直していく、そこに僕たちが生きている世界の豊かさがある気がします。だから、僕は豊かな人生や豊かな感じ方の映画を作ろうと思いました。

 

登場人物の名前について

主人公の若い男”将太”は最後まで本名を明かさないそうですが、それはなぜですか?

 今の時代、世界中どこでもつながることができますが、つらくないですか?「あの時、道をきいて教えてくれた親切なお兄さん、ちょっとイケメンだったけど名前聞いとけばよかったな、どこの誰だろう、もう2度と会わないかもしれないな。」みたいな関係はちょっと素敵ですよね。なんでもかんでもあからさまにわかってしまうよりも自分の記憶の中に残っているだけで、もう2度と会うことはないかもしれないその人もどこかで今豊かな生を送っている、元気でね、みたいな。そういう関係性もいいんじゃないかって思います。そういうところにロマンを感じます。だから、映画を見終わった時にお客さんが「そういえばあの男だれだったんだろう、どこに行ったんだろう、この映画で起こったことを彼は今どう思っているんだろう」とかそんなことを考えられるように映画の中くらい全てを明らかにしないでおきたいと思ったからです。

登場人物の名前はどのように決めましたか?
 適当です笑。でもいい加減にすることはできないので、例えば日本のおばあちゃんが呼びやすい孫の名前はなんだろうと考えたときに将太かなあとか、そういう感じです。おばあちゃんの名前、「艶子(つやこ)」は僕のおばさんの名前をもらいました。艶子という名前は、雰囲気としては色っぽいというか人間として艶がありそうな名前なので、物語の中の洋風の香りがあるような、ちょっと洒落たハイカラな楽器屋さんのおばあちゃんの雰囲気にあっていました。そのおばさんもハイカラなおばさんでした。

映画を通して伝えたいこと

全て偶然のようで必然。損得関係なく受け入れていく「のさり」はコロナ後の世界で僕たちが大切にしていかなくてはいけない精神性だと思います。そういう精神性は熊本、鹿児島、宮崎つまり「のさり文化圏」に息づいています。この映画ではのさり文化圏のみなさんが代々引き継いできた「のさり」という感覚を知ることができて僕も豊かになりました。だから、この映画を見た鹿児島の方がその精神性を感じていただけたとしたら僕はその方にありがとうと伝えたいです。

鹿児島大学生へのメッセージ

「のさり」とは、いいこともそうでないことも、自分に訪れる様々な出来事は、決して偶然ではなく、すべてに意味がある、と感じること。コロナ禍で「何でこんなことになっちゃうんだろう」と、閉塞感を感じているあなた。映画『のさりの島』で感じ方を変えれば世界の見え方が変わるきっかけを与えてくれる。素敵な出会いを感じてください。映画『のさりの島』ガーデンズシネマで7月17日(土)から22日(木)まで上映です!

 

今回は普段、映画館で映画を見ているだけではわからないような撮影の裏側や作り手の思いを知ることができてとても嬉しかったです✨

大学生のうちからプロの方と本格的な映画を作ることができる京都芸術大学の学生たちはとてもうらやましいと思いました!

みなさんも同世代の学生がつくる映画をぜひ映画館で見てみてください!

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